[対談] マチオモイ帖、はじまりのものがたり。

新しい日本地図が見えてくるといい

築山= メビック扇町での展示、ブリーゼブリーゼでの再展示。「マチオモイ帖」はそれぞれの会場でみなさん熱心に読んでくださいましたね。でも、レセプションの時にいきなり、堂野さんが「これを東京ミッドタウンに持っていこう!」とおっしゃったのには驚きました。なぜ、このコンテンツを東京に持っていこうと?

堂野= 展示会場に日本地図が置いてあったでしょ?そこに、34組分の町がマッピングされていたのを見て、これを日本中のクリエイターに広げていきたいと思ったんです。単純に、地図フェチでもあるんで(笑)。

村上= 初回は、ほとんど関西圏でしたからね。日本中のクリエイターに声をかけたくても、やっぱり東北や九州のクリエイター友達は見当たらなくって。

堂野= メビック扇町はこれまで大阪市のクリエイティブを活性化するお手伝いをしてきたんですが、将来的に日本中にクリエイティブネットワークを広げるようなイベントもしたいと考えていたんです。そこに「マチオモイ帖」のコンセプトが当てはまったというわけ。

廣瀬= 僕もレセプションにお邪魔していて、作品を拝見しながら「いいなあ、僕も創りたかったな」と考えをめぐらしていました。僕自身、これまで、メビック扇町で「OAV.E(Ogimachi Audio Visual Exhibition)」という映像系イベントを手がけてきましたから、「マチオモイ帖」は映像にも十分もってこれるコンセプトだと思いました。地方の観光CMのようなノリではなくて、個人もっと私的な思いを再生するような世界が創れるんじゃないかって。

村上= 映像やウェブ系のクリエイターとの接点って、意外とないんですよ。知り合うことができて嬉しいな。

清水= 映像もモバイルで見る時代ですからね。手のひらサイズの「動く、マチオモイ帖」という意味でまだまだ可能性があるような気がしています。

堂野= 考えてみれば2011年の4月末に『しげい帖』が誕生して、6月にメビック扇町で34冊の「マチオモイ帖」展覧会が開かれた。そこから、ものすごいスピードで東京展が決定したんですよね。

さっそくマチオモイ帖制作委員会を結成。東京展を2012年2月に設定。11月から、エントリー受付を開始しましたね。

築山= ただ、全国規模になる時点で大事にしたかったのは「マチオモイ帖」の温度感。企画の思いをどこまで参加クリエイター届けられるかが勝負だと思っていました。

村上= 「マチオモイ帖」の肝は「オモイ」ですから。クリエイターの意識として「ミッドタウンで作品発表できる!」というノリにはしたくありませんでした。

堂野= そこですよね。お二人から「絶対にひとりずつ丁寧に声をかけて、コンセプトを伝えてください」と念を押されました。だから、できる限り全国各地のキーマンに会いに行ったり、電話をかけてコンセプトの説明をしたつもりです。おかげさまで大勢の方と深く気持ちを共有することができました。

築山= 当初の目標は200組。結果的には300組を超える申し込みがありましたね。

村上= それにしても関西からの参加者は多かった。堂野さんは関西のクリエイティブシーンにどのような思いがあるのですか?

堂野= リーマンショック以降の景気の低迷や東日本大震災の影響により、必ずしも東京でなければならいという一極集中の構造が崩れて、これからは日本各地の地域の力がもっと見直されてくるのではと思っています。僕は大阪出身ですが、岡山の大学を出て、東京本部のシンクタンクに就職しました。大阪事務所で活動をしていたのですが、そこで感じたのが大阪特有の「閉鎖感」と「NO.2に特有のひがみ根性」。日本って、アメリカに対しては指を加えて憧憬の眼差しで見ているくせに、アジア圏に対しては上から目線でしょ?それの縮小版が大阪だと思うのです。東京には憧れ、地方は見下す感がある。それは違うと思うんですよ。日本各地に素晴らしいクリエイターがたくさんいる。だから、「マチオモイ帖」展をきっかけに、大阪のある種の閉鎖感を打ち破って、日本中のクリエイターと切磋琢磨しあえるような関係が生まれたらいいなという思いもありました。